謎の蕎麦屋に客が押し寄せる
その秘密をさぐりに、佐賀に出発 !
写真と文 = 片山虎之介
廃村になった山奥の小さな村に、蕎麦屋さんができました。その店が、すごい人気なのだそうです。客の数は、混むときには1日200人を越えるとか!
なぜ、そんな山奥に店を作ったのか。
なぜ、そんなに人気なのか。
その蕎麦は、なぜ美味しいのか。
店の名は『狐狸庵』(こりあん)。ほんとうに狐か狸に化かされたのではないかと、首をひねりたくなる話です。
謎を解明するには、とにかく自分で行って蕎麦を食べ、確かめてみるしかありません。
場所は、九州、佐賀県の唐津。
うわっ! なんと遠い・・・!! 九州のはしっこじゃありませんか。
唐津には蕎麦を食べる習慣ってあったっけ?
でも、それだけ客が集まるのには、絶対、何か理由があるはず。
なぜ、なぜ、なぜ、なぜ・・・?
次から次へと疑問が湧き出て、もうこうなったら遠いなんて言ってる場合ではありません。
愛用のカメラをバッグに詰めて、とにもかくにも行ってみましょう。
仙境に暖簾を揺らす、謎の蕎麦屋を訪ねる旅のライブ・レポート。始まりです!
深山幽谷の道はナビが使えない
「・・・あ、それから車のナビは使えませんよ。ナビで来るお客さんは、必ず道に迷います。FAXで地図をお送りしますから、それを見ながら来てください」
店への行き方を訪ねる僕に、電話の向こうで、ご主人は、こう言いました。
うーん、やっぱり、何者かが僕をだまそうとしているんじゃないだろうか。ナビを使わせないで別の道を教えて、罠にはめようとしているのかも・・・。頭の隅に芽を出す、そんな疑いを打ち消しながら、僕は自宅のFAX番号を伝えました。
ご主人は、さらに説明を続けます。
「地図を見ながらでも、迷うひとは迷うんですよ。道を上ってくると、ところどころ道端に、山瀬方面っていう案内板が立ててありますから、それを見逃さないようにしてください。途中で迷っても、このあたりは携帯の圏外だから、電話で道をお教えすることはできないんです。まあ、予定の時間を一時間くらい過ぎても、まだいらっしゃらないようだったら、こちらから車で探しに行ってみますから。それじゃ、くれぐれも気をつけてどうぞ・・・」
電話は切れました。
FAXで届いた地図だけが頼りなわけだけど、これがまた、なんとも心もとない地図。枝道がいっぱいあって、よくわかりません。
山のふもとから地図を頼りに、山道に乗り入れます。
わかりにくい分岐点では車を停め、地図で確認しては、また走り出します。道は上るにつれ、どんどん細くなっていきます。
店のある集落・山瀬には、住民が5人ほどしかいないとか。そんな場所に、よく蕎麦屋を作ったものですよね。
道路の端は崩れかかって、その下には渓流が何段もの滝を作り、白い水しぶきが涼しげです。僕は車を停め、滝の写真を撮ります。撮らずには、いられません。素通りするには、あまりにも美しい風景なのです。
細い道の真ん中には緑色の苔が生えています。この苔の上でブレーキを踏んだら、スリップして、まずいことになりそう。車のスピードを落として、ちょっとドキドキ、かなりワクワクしながら、僕は薄暗い森の道を慎重に上って行きました。
と、上のほうから、一台の軽トラックが下りてきました。
すれ違えそうな場所で停車して待っていると、トラックは僕の車に並んで停まり、運転してきた人が窓を開け、話しかけてきました。
「大丈夫? 時間がかかるので、迎えに来てみましたよ」
『狐狸庵』のご主人でした。
それはそれは、すみません。滝の写真を撮っていたので、と説明して、僕は車を前に進めました。
ご主人の車は一旦、もう少し先まで下り、Uターンできる場所で車を回してくるみたいです。
やがて杉林を抜けて、広い場所に到着。ずっと木立のトンネルばかりを走ってきたので、空がとても広く感じられます。
黒いトタン屋根の、ここが『狐狸庵』。入り口の前には、狸の置物が、「よくきたね」という感じでこちらを見ていました。
「山瀬地区」は消えた村
この地域、山瀬に、初めて自家発電の電灯がともったのは、昭和35年のことだそうです。町の名は浜玉町といいました。一時は山瀬に住む人も、かなりいたのですが、その後、過疎化が進み、平成6年には残っていた人たちが集団移転して、「山瀬区」は廃止されてしまいました。いわゆる廃村です。
山瀬には、浜崎小学校の山瀬分校がありました。最後の年には、たったひとりの児童になってしまったこの分校も、平成7年に廃校になりました。
そして、平成9年9月には、浜玉町は唐津市に統合されたのです。
その後、ここに暮らす人の数ですが、平成15年3月の資料によると、山瀬の住民は、3世帯、5人。内訳は男性3人、女性2人となっています。
『狐狸庵』のご主人が、この地に引っ越ししてきたのは、平成7年のこと。うどん店を経営していた神戸で、阪神・淡路大震災に遭い、大きな被害を受けました。
もう一度、店を開く場所を探していたところ、自然が豊かなこの場所との出会いがあり、神戸を離れて遠い山瀬の地に移転することを決意したのです。
『狐狸庵』を開いたのは、山瀬の地区が廃村になった翌年。浜玉町の役場の人も、まさか本当にこの場所に、蕎麦屋さんが引っ越してくるとは思っていなかったようです。
それでも『狐狸庵』は、この地に暖簾をかかげました。ですからメニューには蕎麦もあるけれど、うどんも載っています。本来はうどん屋さんだったのですから。
山奥にある不思議な蕎麦屋の蕎麦がうまいと評判になり、お客さんの数は増え続けました。ピーク時には、この山奥の店に、一日200人を越える客が押し掛けたそうです。あの細い山道は、さぞかし渋滞したことでしょう。
ちなみに、今は落ち着いて、お客の数は一日50人から60人ぐらいとか。それでも結構な人数です。細い山道の出会い頭の衝突、十分気をつけて運転してください。
さて、蕎麦に詳しい方なら、ここでちょっと不思議だなあと思われることでしょう。
「そんなに美味しい蕎麦なら、きっと手打ちで作っているのだろう。主人は蕎麦打ちの名人に違いない。でも、ひとりで蕎麦屋を経営する場合、一日に打って供することができる量の目安は、だいたい80食ぐらい。一日200人を越える客をこなしたというのだから、蕎麦を打つ人が何人もいたのだろうか・・・?」
いえいえ、蕎麦を打つ人は、ご主人ひとりです。
蕎麦が美味しいと褒められると、ご主人は、いつもこんなふうに答えます。
「蕎麦を褒めていただいても、実はあまり嬉しくないんです。蕎麦が褒められるということは、そのソバを栽培した人が褒めてもらったということ。そして製粉した人の技術が褒められたということなんです。蕎麦の味は、材料のソバで決まってしまうので、私の手柄じゃないんです。私はだから、うどんを褒めてもらったほうが嬉しい(笑)。それに私は手打ちの名人なんかじゃないです。蕎麦は機械で打っているんですよ」
びっくりです !
『狐狸庵』の蕎麦を食べて、これが機械で打った蕎麦だと気が付く人がいたら、その人はすばらしく蕎麦に詳しい人に違いありません。とても上手に仕上がっています。味も香りも秀逸です。機械打ちでも、こういう蕎麦ができるものなのだと、僕も驚きました。
うまい蕎麦には理由がある
ご主人の仕事の進め方は、極めて合理的です。
必要のないところに、無駄な労力はかけない。
必要なところには、十分に手をかける。
それが基本の考え方です。
ですから、この店では、一枚の蕎麦を2回に分けて供するのです。
一人分の蕎麦を半分ずつ時間差で、2枚の器に分けて供する。こんなことをする店を、僕はほかに知りません。ご存知の方がいらっしゃったら、ぜひ、教えてください。
1枚の蕎麦を2枚に分けて供する理由は、食べている間に、蕎麦の味が落ちるのを防ぐため。最後の最後まで、おいしい蕎麦を味わってもらいたいという、ご主人の強い思いが、このやり方を選ばせたのです。
ですから機械で蕎麦を打つのも、この方法で美味しい蕎麦を打てる手順を工夫したからなのです。
器に、ざるではなく、皿を使っているのは、衛生面へのご主人の配慮です。様々な工夫を積み重ねて、その結果が一日200人の行列になったのです。
技術的なことは、ここではあえて書きません。
蕎麦は、実際にその場に行って、自分で食べてみなければ、何もわからないからです。技術論を読んで、わかったような気になるのは寂しいことです。蕎麦の幸福は、食べるところにこそあるのです。
ぜひ『狐狸庵』を訪ねて、この2枚に分けて供される蕎麦を味わってみてください。
「蕎麦が美味しいと褒められるのは、ソバの生産者が褒められているということ」とご主人がいう意味も、わかります。その通りだと思います。
でも、どんなにすばらしい蕎麦粉があっても、技術が稚拙で、その味を殺してしまうようでは無意味です。蕎麦を生かすことのできる技術があって初めて、「蕎麦は蕎麦粉で決まる」のひとことが言えるのです。
『狐狸庵』で使っている蕎麦粉は、すばらしいものです。これだけの蕎麦粉を使っている店は、全国を探しても、わずか数軒でしょう。ほかの店には真似のできない蕎麦粉だということもできますし、同時に、やる気さえあれば、誰にでも真似のできる蕎麦粉だということもできます。
うどんも、蕎麦に負けずに美味しいし、稲荷ずしにも驚かされます。この油揚げは、神戸の職人さんが『狐狸庵』のためだけに、手作りしているのだとか。欲しくても、ほかでは手に入らない、お稲荷さんなのです。

いろいろお話をうかがっていたら、すっかり遅くなってしまいました。その晩は、ご主人のご好意で、ご自宅に泊めていただくことになりました。
静かな静かな、山奥の一夜。
回りには田んぼもないので、カエルの鳴き声さえ聞こえません。
狐か狸に、だまされているのだとしても、楽しいから、ま、いいか、と思ったりしながら、眠りについたのです。
一生、忘れられない思い出です。
『狐狸庵』 (こりあん)
電話0955-56-7089
佐賀県唐津市浜玉町大字山瀬1161-2
最寄り駅/JR筑肥線、筑前浜崎駅。駅から車で約30分
営業時間 11時~17時
定休 月、火曜