百年の時を経た蔵で開催される
味覚を鍛える蕎麦の道場「百年塾」
「百年塾は蕎麦屋ではありません」と、電話の向こうで道場主の山本 剛さんは、きっぱり言います。
百年塾では、世間の相場で3000円から4000円くらいする蕎麦のコース料理を、たった1000円で食べさせてくれるとか。しかもお客さんが入れるのは土曜、日曜、祝祭日のみ。
それが本当なら、たしかに蕎麦屋ではないでしょう。そんなことをしていたら、店だったら、あっという間に潰れてしまいます。
「百年塾は、味覚を鍛える蕎麦の道場です」と山本さんに言われても、やっぱり良くわかりません。たぶん、世の中に前例のない塾なのでしょう。
百年塾とは、いったいどういうことをするところなのか。興味津々、東京から新幹線に乗り、岡山県の百年塾を訪ねてみました。
百年塾があるのは、岡山県の高梁(たかはし)市、中井町というところ。市の中の町なのだから、商店街があったり住宅街があったりして、自転車に乗った高校生が、街路樹のある道を、iPodを聞きながら風のように通り過ぎているのだろう、と、思ってたんです、実は。
東京から取材にうかがいますと、お伝えすると、道場主・山本剛さんは、わざわざ車で最寄り駅まで迎えにきてくださいました。ありがとうございます!
伯備線の方谷(ほうこく)駅の、駅前広場で車に乗せていただき、一路、百年塾を目指します。日曜日の、時刻は12時の10分ほど前でした。
山本道場主は言います。
「塾では生徒さんが9人、私が戻るのを待っています。急いで行きましょう。12時から道場があるのです」
作務衣を身にまとった求道者のような姿。ほとんど笑わない厳めしい表情。いかにも勉強家らしい度の強い眼鏡。用件の要旨を簡潔に伝えるストレートな話し方。山本道場主は、まじめ、厳格、そして真っ正直な方とお見受けしました。思ったことはズバリと口にする。いわゆる歯に衣着せぬ言い方をするけれど、こういう人って意外に親切な人が多いんです。
僕は頭の隅でそんなことを思いつつ、塾生さんを待たせていることに恐縮して、運転の邪魔にならないよう、なるべく話しかけないようにしていたのです。
方谷駅は高梁川のすぐそばに立つ、あたりには人家も少ない小さな駅です。町外れにあるこの駅から、家がいっぱいある市街地の方向へ向かうのだろうと思っていたら、あれあれ、ちょっと様子がへん。車のフロントガラスには、どんどん緑が多くなっていくではありませんか。
走るほどに道幅が狭くなり、道の両側の山々は高くなっていきます。道路の両側に壁のようにそそり立つ緑の木々も、ずんずん厚みを増していくような気がします。
でも、なんだかほっとする緑です。ふんわりと軟らかくて、この緑にくるまって眠ったら、さぞかし良い気持ちだろうなと思わせるような緑の山。この山を食べたら、綿菓子みたいにやわらかくて、口あたりが良さそうです。
いったい何がそういう印象を与えるのだろうかと、しばらく考えたら気がつきました、その秘密に。植生が違うのです。
このあたりの山には、スギやヒノキなど、針葉樹がほとんど見当たりません。クヌギやコナラなどの落葉広葉樹に覆われた山なので、緑の真綿みたいな感じがするのでしょう。
良くいえば、自然が豊かに残されている、とも言えます。言い方を選ばなければ、放りっぱなし、とも言えます。いずれにしても、ずーっと見ていたくなるような緑のトンネルの中を、山本道場主が運転する車は、かなりのスピードで疾走していったのです。
視界が開け、遠くの山々が見渡せる場所に出ました。時間は11時55分。
「もうすぐです。そこの坂を下れば、塾が見えます」
山本さんは、塾生さんを待たせることを、とても気にしている様子で、そうつぶやく口調に、安堵の気配が感じられました。
そのとき僕が、言います。
「あ、すみません。ちょっとだけ車を停めてください。ここから写真を1枚取りたいんです」
山本さんの横顔が、こわばります。でも、車を停めてくれました。
今撮らなければ、二度と撮れない。それが取材の鉄則です。あとで撮ろうなどと思っていると、必ず失敗します。ずうずうしいと思われようが、恥知らずと言われようが、写真はそのときに撮らなくてはいけないのです。塾生の皆さん、山本さん、ごめんなさい。
小さな峠の上から眺める風景は、まさに日本の田舎の典型でした。人の暮らしを包む、やさしい山、ほんの少しの平地に広がる水田。川があり、小さな橋があり、サイコロみたいに小さく見える民家が、肩を寄せて並んでいます。
素早く、2枚、3枚、4枚、5枚、6枚ぐらい撮って、構図を変えて、7枚、8枚、9枚ぐらい撮って、カメラを縦位置に変えて、10、11枚と撮ります。
(もう・・・早くしなさい!)と、暗に諭すように、山本塾長はハンドルを握ったまま、無言で待ちます。
「すみません、お待たせしました」と、詫びて、僕は車に戻りました。
「では行きます」
車は坂道を急発進します。
カーブを曲がって道は下り坂になります。
「あれが百年塾です」
坂を下り切った場所は、小さな盆地のようになっていて、そこに数軒の家が模型のように集まっています。
「あ、すみません。ここで停めて写真を撮らせてください」
と、再び、ずうずうしいカメラマンは言います。急いでいるのは、わかっているのですが、ごめんなさい・・・。
車が停車すると、僕はドアから飛び出して、目の前のおまんじゅうのような山と、そのふもとに並ぶ数軒の家の姿をカメラに収めました。今度は、パシャッとシャッターは一回だけ。すぐに車に戻ります。
ドアを締めた瞬間、車は坂道を、雪の急斜面を滑り下りるソリのような勢いで駆け下りていきました。
百年塾の二階には、すでにお客さん・・・いえ、塾生さんたちが、正座してお待ちです。山本道場主も、その前に正座して、息をしずめながら挨拶しました。
「お待たせしました。すでに時間は過ぎていますので、すぐに始めます。今いらっしゃった方は、東京から取材にこられた片山虎之介さんです。蕎麦を取材されて日本中、世界中を回っている方です」
僕も、皆さんをお待たせしたことをお詫びして、席に着きました。
山本道場主は言います。
「勘違いしていただいては困るのですが、ここ百年塾は蕎麦屋ではありません。あくまでも味覚の修行をする道場です。蕎麦の知識は道場主の私のほうが豊富ですし、味覚も私のほうが上です。ですからきょうは私が先生で皆さんは生徒です。そう思って接していますから・・・ごめんなさいね」
生徒さんたちの間から、親しみを込めた笑い声が上がります。みんなニコニコしながら耳を傾け、山本道場主の緩急自在な語りに引き込まれていきます。
蕎麦という食べ物の基礎知識や、蕎麦の正しい食べ方を楽しく説明したあと、道場主は言いました。
「これから蕎麦を召し上がっていただきますが、蕎麦は栽培された産地によって味に違いがあります。きょうの蕎麦粉の産地は・・・あ、言わないでおきましょう。そこの片山先生が、産地を当ててくれるかもしれません。各地の蕎麦の味を良くご存知の方ですから」
おっと、と僕はあわてました。そんなことが僕にわかるだろうか。産地によって蕎麦の味はたしかに違うけれど、それ以上に畑によっても違うし、栽培された年の気候によっても差が出てくる。でも、こういうことになったら答えないといけないし、困ったなあ・・・と脇の下に汗がにじみ出すのを感じながら、固まっていたのです。
さて、最初に運ばれてきたのは、ソバの芽のサラダです。トマトがちょっと入って、彩りを添えています。
次が甘味噌を添えた蕎麦のクレープ。蕎麦の甘さと味噌の甘さが引き立て合って、なかなか結構なお味です。中には刻んだ野沢菜漬けが入っています。
それから豆乳を混ぜて蕎麦がきを作り、冷蔵庫で冷やした料理。茶碗蒸しみたいで、これもおいしかったです。
そして、いよいよ蕎麦が運ばれてきました。
淡い緑色がかった、美しい色をしています。
いただくと、強い香りが口中に広がります。いい蕎麦です。細切りで、十分にコシがあり、歯を当てると甘味が増し、なるほど蕎麦道場の手本として、恥ずかしくない蕎麦だと感じました。
しかし、さて、産地はどこかと言われると、うーん、どこでしょう。つなぎは入れない十割蕎麦です。甘皮までしっかり挽き込まれて、ソバの実が持っている個性は、余すところなく蕎麦切りに反映されているようです。
この甘皮の感じ、この香りの感じ・・福井だろうか・・・たぶん常陸ではない。奥出雲とも、違う。北海道ではないことは確かだ。会津・・かもしれないけれど、会津の蕎麦の軽やかさがないような気がする。阿蘇や鹿屋、対馬といった九州でもない。信州の標高の高い地域だろうか。その可能性もある。福井か信州、あるいは富山あたりの在来種ということも考えられる。
うーん、難しい・・・。
思わず、腕組みをしてしまいました。京都の『じん六』さんの利蕎麦(ききそば)のように、3種類の中から産地を選べといわれたら、まだ楽なのですが、なんのヒントもなしに食味だけで産地を当てるのは、実に難しいことです。
「お蕎麦、足りない方は、おかわり、いかがですか」
料理を運んでいる奥様が声をかけてくれました。
僕は迷わず、二枚目をお願いします。
奥様はにっこり笑って「海苔はかけないほうがいいですよね」
おっしゃる通りです。一枚目にいただいた蕎麦は、刻み海苔がかけてありました。だから僕は、その海苔を端っこに寄せて、蕎麦を味見したのです。これまた立派な海苔で、香りが強くたっていました。海苔が良すぎると、蕎麦の香りを楽しむのは難しくなります。奥様は、海苔を箸で除ける僕の作業を、ご覧になっていたのかもしれません。
二枚目の蕎麦。これは、おかわりをお願いしたのは僕ひとりだったので、道場主は釜前の仕事に集中できたのでしょう、見事な茹で加減でした。麺の中心まで熱が通った瞬間に上げて、さっと冷水で締めてあります。
ざっと手繰ると、一枚目よりもさらに強い蕎麦の香りがのど元を吹き過ぎました。
うん、わかった、あそこだと、僕は思いました。
山本道場主が、調理場から戻り、正座して尋ねました。
「産地は、どちらでしょう?」
僕は、食べ終えた箸を置いて答えます。
「山本先生は、高い技術をお持ちの方で、ソバの実の持つ個性をそのまま、キチンと蕎麦の麺に移してくださいました。僕は福井のソバではないかと思うのですが・・・」
「その通り !」
山本先生が、表情を輝かせてうなずきました。
よかったあ・・・と、僕は胸をなでおろしました。強い香り、甘味、食感、あれだけバランスのとれた蕎麦が採れる地域は、そう多くはありません。福井の中でも、かなり優秀な農家が育てたソバなのでしょう。
「福井の大野在来です」と、道場主は、大きな声で教えてくれました。
そんなこんなで、百年塾で、しっかり味覚と度胸を鍛えていただいた僕は、道場が終わったあと、山本さんと一緒に、近くを流れる川のほとりに行きました。
山本さんが言います。
「子供のころは、毎日、ここで魚獲りをしたものです」
川にはウグイなのかイワナなのか、小魚がたくさん泳いでいるのが見えます。
こんな川が残されている場所が、日本にはいったい、どのくらいあるのでしょう。雑木林に覆われた、ここ高梁(たかはし)市、中井町は、自然破壊という網の目を、辛くもすり抜けた希有な場所のように思います。子供が泳いで魚と遊べる川が、まだ生き残っている地域なのです。
川面を見つめる山本さんの横顔に、僕はカメラを向けます。
山本さんがそれに気づいて、こちらを向きました。
ファインダーの中の山本さんの表情が、すごくやわらかくなっているのがわかります。駅前で最初にあったときの、あの厳つい感じは嘘のようになくなっています。
山本さんが、にこっと笑いました。
僕には、その顔が、川で魚と追いかけっこをして遊ぶ少年の笑顔に見えました。
「いい顔です !」
声をかけると道場主は、ちょっと照れたように、また笑ってくれました。
『百年塾』
岡山県高梁市中井町西方2486
電話0866-28-2826
土曜、日曜、祝祭日のみ開催。
完全予約制
(百年塾のホームページにリンクします)
http://hyakunenjuku.web.fc2.com/