HOMEMagazine2011年蕎麦Web博覧会 > 田舎の蕎麦屋という理想郷

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田舎暮らしがしたいから
丹波の山里に蕎麦屋を開いた

 ごくまれに「景色の見える蕎麦」に出会うことがあります。その蕎麦を食べると目の前に、ひとつの「風景」が浮かび上がるのです。
 それは山があり、川があるといった風景ではなく、味、香り、形、温度、食感といった、食味の五感が感じとる感覚の「風景」です。
 『大名草庵(おなざあん)』の蕎麦が、まさにそれでした。この細切りで弾力のある蕎麦を口に運ぶと、舌が迎え、歯が潰し、喉に送り込まれるにしたがい、小さな驚きが次々に頭をもたげるのです。はっきりした輪郭を持った、個性的な世界が見えてくるのです。

 『大名草庵』のある場所は、兵庫県の丹波市青垣町大名草。『大名草庵』というちょっと変わった屋号は、「大名草(おなざ)」という地名からとったものです。
 四方を里山に囲まれた集落の一軒。今ではほとんど見かけなくなった、茅葺き屋根の建物が、この店です。
 まずは暖簾をくぐって、中に入ってみましょう。
 迎えてくれたのは、いかにも人の良さそうな、ふっくらした顔立ちのご主人、西岡芳和さん。ちょっと後ろに下がって、奥さんの笑顔も見えます。この建物に、このご夫婦。まさにぴったりの組み合わせです。
 そして分厚い木のテーブルに運ばれてきたのが、前菜ともいうべき一皿「季節の一品」。四季折々、畑にある旬の食材の命を巧みに引き出して、皿に盛り付けた、輝くばかりの料理です。
 これは奥さんが調理したもので、蕎麦はご主人の西岡さんが担当。役割分担ができているのだそうです。

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 いただいてみます。
 豆の甘さが尋常ではありません。とろけるように軟らかい茄子と甘味噌が、一体になって舌の上を滑ります。しめじの白和えも、シャキッとしたキュウリも、目が覚める美味しさです。
 前菜でこれだけ感動するのですから、さあ、これから登場する蕎麦への期待が、いやがうえにも高まります。

 運ばれてきたのが、右の写真の蕎麦。どこの店でも基本となる「もりそば」です。
 細切りのこの蕎麦を見ると、ご主人の西岡さん、ぽっちゃりおおらかで、小さなことは気にしない人のように見えるけれど、実は繊細な神経の持ち主で、美意識も相当に高いことがわかります。

 まずは、お約束。蕎麦だけをすくいあげて、味わいます。
 細くてコシのしっかりした蕎麦。するりと口に納まる、食べやすい蕎麦です。夏だというのに香りも十分。まるで新蕎麦のような色をしています。
 歯を当てるとすっぱり気持ち良く切れて、甘味も満点。とたんに、僕の目の前に、五感の「風景」が広がりました。
 ふうっ・・・絶景です!
 この蕎麦は、ふところが深い。香りや甘味をとことん追求するというストイックな蕎麦ではないけれど、他の料理と一緒に食べても過剰な自己主張をせず、合わせる料理をすべて受け入れる包容力を持っています。これはやっぱり、蕎麦を打った西岡さんのお人柄が反映されているのでしょう。
 
 材料の玄ソバは、三重県産とのこと。やや粒の大きめのソバの実の殻を取り、丸ヌキにしたものを石臼で自家製粉しています。
 甘皮までしっかり挽き込んで製粉しているけれど、実そのものが大きめなので、キリッとコシが立った蕎麦になるのでしょう。
 つまり十割蕎麦とはいっても、内層粉の比率が高いので、食感がしっかりしたコシのある蕎麦になるのです。
 これに似た食感の蕎麦は、会津の蕎麦です。会津では意識的に甘皮部分を使わず、一番粉に近い蕎麦粉で蕎麦を打ちます。
 『大名草庵』の蕎麦は、しっかり甘皮部分も挽き込んでいるため、会津の蕎麦よりも香りを強く感じます。でも、食感はどちらも似ていて、いってみれば会津の蕎麦の良いところを組み込んだ十割蕎麦という言い方ができるかもしれません。
 と、いろいろ書いてみても、わかりませんよね。蕎麦は食べてみなくちゃ、わかりません。とにかく丹波に出かけていって、一枚食べてみれば、何も言わなくても、すべてわかっちゃいます。ぜひ、そうしてください。

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 西岡さんに、この店を始めた動機をお聞きしました。
「私は、生まれは東京なのですが、ずっと大阪のスーパーマーケットで、魚を仕入れる仕事をしてきました。町なかで暮らしているうちに、ある時期から漠然と、いつか田舎暮らしをしたいと思うようになったのです。そして、この場所で、この建物と出会いました。これは一般の人が住んでいた民家ではなくて、陶芸家がギャラリーとして作った建物なんです。だから、お客さんに食事をしていただけるスペースがあったんです。ここで蕎麦屋をやろうと、そのとき思いました。幸い、蕎麦打ちは、師匠の石井信行さんに手ほどきを受けていたので、そこそこのものは打つことができました。しっかり修行をして、人様に食べていただいても恥ずかしくない蕎麦を打てるようになって、ここに住もうと、妻とも話して決めたんです」

 西岡さんのいう、田舎暮らしとは、いったいどんなものなのか、僕もちょっとだけ体験してみたいと思い、一日だけ、田舎暮らしの弟子入りをさせてもらいました。

 まず、朝は、朝日とともに起きて、蕎麦打ちです。
 西岡さんは頭にしっかり鉢巻きを巻いて、意外に狭い延し台の上で、大きな麺体を上手にコントロールして細切りの蕎麦に仕上げていきます。
 頭の鉢巻きの頂点からは、西岡さんの頭頂部が見えます。その肌に、雨でも降ったように汗がボツボツと吹き出してきます。
 僕は蕎麦打ちよりも、そちらの方に気をとられ、「ふーん、人間の頭って、こういうふうに汗が出てくるものなんですね」と感心して見ていたら、西岡さんに、「写真、撮っちゃ、だめですよ(笑)」と、しかられました。

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 奥さんは、すぐ近くの畑に出かけて、旬の食材を採ってきます。とにかく休む間もなく働く奥さんです。
 西岡さんも働きものですが、この奥さんと一緒だと、汗を拭き拭き蕎麦を打つ西岡さんが、まるでのんびり仕事をしているように見えてしまうからおかしいです。

 店を開けて、お客さんが入ると、おふたりの表情が一変します。プロの蕎麦屋さんの顔になるのです。
 お客さんに気持ち良く過ごしていただきたいという気配りに、プロの気迫がみなぎっています。
 日本料理店で働いて料理の技術を身につけたという奥さんの接客は、惚れ惚れするほど見事です。
 西岡さんは釜前の作業を、無駄のない動きでこなしていきます。
 流れるように客が来て、そして去って行く。午後2時半を過ぎたら、早くも店じまい。11時30分から14時30分まで、3時間の営業ですが、仕込みは朝からやっているのですから、一般の会社でいえば、もう退社時間なのです。

話は変わって・・・区切り線

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 田舎暮らしの神髄は、ここから始まりました。
 店を締めた西岡さんは、車に乗り、僕も隣りに乗せていただき、近くの温泉に向かいます。
 丹波から峠を越えて但馬の国へ。狭い山間の道を15分ほど走れば、黒川温泉に到着です。
 すぐ目の前にロックフィル式の巨大なダムがある日帰り温泉で、もともとは大明寺というお寺の花園から湧出したという、霊験あらたかな温泉です。
 ほとんど貸し切り状態のこの秘湯に、ゆっくりつかって汗を流します。それから庭の露天風呂に移動して、指先が白くなるまで、のんびりあたたまったのです。

 入浴を終えて、温泉の駐車場に停めてある車に向かう途中、駐車場の隅に、打ち捨てられたように停められている消防自動車を発見。そのフロント部分には、大きな除雪機が取り付けられています。妙に可愛いそのスタイルに惹かれ、思わず写真を撮ってしまいました。

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 田舎の一日のクライマックスは、なんといっても夜です。
 近所の仲間が集まって、酒宴が始まります。
 この近くには、『大名草庵』のような蕎麦屋さんが、あと2軒あります。
 一軒は、手打ちそば『三津屋 妹尾(せのお)』、もう一軒は、奥丹波・市島の『そばんち』。『大名草庵』も含めて、個性的な名前が多いけれど、たぶん凝り性の主人たちの性格が反映されたものなのでしょう。
 3軒の蕎麦屋さんは狭い地域にあって、互いにライバルのはずなのですが、意外にも大の仲良し。なにかと口実をみつけては、みんなで集まり、酒を飲み、美味いものを食べるのです。
 西岡さんは言います。
「蕎麦屋をしてよかったなあと思うことは、仲間の輪が大きく広がったことです。ふつう定年後は、それまでの仕事がらみの人間関係はみんな切れてしまって、寂しい生活になる人が多いと聞きますが、私は逆にスーパーを退社してから、以前の何十倍も友人が増えました。それも腹を割って話せる親しい友達が、いっぱいできたのです。蕎麦は人をつなぐって本当なんだなあって、このごろしみじみ思います」
 西岡さんが田舎暮らしで得たものは、これだったのです。
 ゆったりした時間と、信頼できて、ずっと付き合っていける仲間たち。
 誰もが欲しいものだけれど、手に入れることができる人は、そう多くはありません。

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 田舎暮らしの弟子入り体験を終え、名残り惜しいけれど僕は『大名草庵』を後にします。
 背伸びして手を振り、見送ってくれる西岡さんご夫妻の姿が見えなくなったあと、僕はふと気がつきました。
「そういえば、西岡さん、ずっと笑っていたなあ」
 一日の出来事を思い出しても、笑顔の西岡さんしか思い出せません。
 うーん、田舎で蕎麦屋・・・。
 これは意外に、いいかも。
 そんなことを、ちょっと思ってみたりした『大名草庵』の一日でした。


『大名草庵』
電話0795-87-5205
兵庫県丹波市青垣町大名草1003
営業時間 11時30分〜14時30分
休 火曜、水曜
(お店のブログにリンクします)
http://blog.livedoor.jp/onazaan/