おいしい蕎麦が食べたくなったら、私は迷わず北陸新幹線に乗る。
蕎麦が食べたい気持ちと一緒に頭に浮かぶのが、福井の、あの蕎麦屋、この蕎麦屋のメニューの数々だ。
舌先をくすぐるように細切りの蕎麦が滑っていく、感動の食感がよみがえってくる。
福井の蕎麦は、福井に行かなければ食べられない。
そこがいいのだ。
おいしい蕎麦は、福井にある。
福井の蕎麦は、なぜ、こんなにおいしいのだろう。
栽培しているソバが在来種だからなのか。
それとも、蕎麦の食べ方、食文化によるものなのか。
あるいは、その両方が原因なのか。
おいしさの理由を、解明してみたい。
福井の蕎麦、在来種の特徴とは?
福井県は、蕎麦に関しては、他に例を見ない不思議な地域だ。
「不思議の国のフクイ」と呼びたくなるほど、変わったことをしている。
何をしているかというと、すべてにおいて効率が優先されるこの時代に、いまだに在来種のソバを栽培しているのだ。
福井以外の県では例外なく、改良品種のソバを主力に栽培を行っている。
改良品種のソバのほうが、効率良く、たくさんの量が収穫できるといわれているからだ。
つまり、「量」を最優先に、蕎麦という食物を生産しているのだ。
それに対して福井県は、ソバの品種改良を行わなかった。
在来種を育て続けたのだが、在来種のソバは収量が少ないうえに、栽培が難しいと言われている。もちろん収量は多いほうがいいので、福井県は、福井の在来種の中でも、比較的大粒の種子を、県内の自治体で積極的に栽培してもらおうと、農家に提案したことがある。
これが見事に却下された。
「私たちが今まで育ててきた、この土地の在来種のほうが絶対においしいから、変えるのはいやです」と、種子を変えることを拒否した。
福井の農家は、「量」よりも「味」を優先したのだ。
似たようなことが、ほかの県で起こった実例がある。
蕎麦処として知られる、ある県で、ある年、大きな台風がきて、地元で昔から栽培を続けてきた在来種のソバが全滅した。来年、畑に蒔くための種子もとれないほど、大きな被害を被ったのだ。
そこで、その県は改良品種のソバを栽培するように、農家を指導した。
この品種は、Kソバという名前だとしておこう。
農家は、言われた通り、Kソバの種を蒔いた。
ソバは育ち、草丈がグングン伸びた。
在来種のソバとは比較にならないほど、大きく育った。
大粒のソバが、たくさん実り、今までにないほどたくさんのソバが収穫できた。
農家は、大喜びだった。
しかし、翌年、なぜか農家は、Kソバの種を嫌い、地元の一部の農家にわずかに残っていた在来種の種を、少量ずつ分け合い、これを増やす形で栽培を始めたのだ。
なぜ、たくさん収穫できるKソバを嫌うのか。
「Kソバは、量はたくさんとれるけれど、もともと私たちが栽培していた在来種のほうが、ずっとおいしいから、やっぱりそっちを育てたい」というのが、農家の言い分だった。
地元に蕎麦の食文化が生きる地域では、蕎麦はおいしさが重要なのだ。
これは、自分たちで食べるからという理由もあるが、同時に蕎麦は、冠婚葬祭などで大切な客に振る舞う、その家の接待の道具でもあるからだ。
接待の料理がおいしくなかったら、家の面目が丸つぶれになる。
「蕎麦が打てなければ、お嫁に行けない」と言われた時代があったが、これは誇張した話ではない。現実の問題として、冠婚葬祭など大切な行事の際、一家の主婦が、賓客への接待である蕎麦が打てなかったとしたら、「あの家は、客をもてなすこともできない」と、笑われてしまうのだ。
だから人々は蕎麦打ちの技術を競い合い、「あっちの村より、私の村のほうが、蕎麦がおいしい」と、自慢しあったのだ。
ときに、「あの村の蕎麦は、おいしくない」という噂が流れると、おいしくないと言われた村の人々は怒り、「どっちの村の蕎麦のほうがおいしいのか、食べ比べてみようじゃないか」と、村一番の蕎麦打ち名人が、麺棒を持って勝負をしに出かけたものだった。
蕎麦は、このように、人々の生活の根っこの部分に、分かち難く結びついた食べ物なのだ。それは単なる食べ物の域を超えて、人々のプライドにかかわるほどの意味を持つ、生活に欠かすことのできない必需品なのだ。
福井の古文書に残る蕎麦の記録
文化八年(1811)というから江戸時代中期、幕府から福井に派遣された役人に、村の人たちが、ご馳走として蕎麦をふるまったという記録が残されている。
この時代、福井から遠く離れた江戸では、買い物のガイドブックである「名物商人ひやうばん」に、『巴町砂場』(現在、東京で最も古い歴史を持つ蕎麦屋)の前身である『久保町砂場』が掲載されるなど、蕎麦の食文化が隆盛を極めていた。
福井でも、蕎麦は庶民にとって最高のご馳走であった。
幕府からの大切な客である役人にふるまった蕎麦の記録を見ると、夕食に「蕎麦切」と「汁 だし」を提供し、小皿には、大根おろし、柿、ねぎ、わさび、浅草のり、花かつおを添えたことが記されている。
興味深いのは、「汁 だし」と書かれている点だ。
当時、醤油はまだ高価なものであり、「煮抜き」や「垂れ味噌」など、味噌系の調味料が一般的であった。特に地方では、味噌を大根おろしの汁の中に溶かし込むような食べ方をする例が多かった。
この古文書では「汁 だし」と書かれているところをみると、あるいは醤油を使った汁だった可能性もある。
さらに薬味が何種類も添えられ、実に贅沢な仕立てであることがわかる。
他者を歓迎する気持ちを伝えるために、精一杯のことをして、最高のおいしさを味わってもらおうとするのが、もてなしの食文化である蕎麦の特徴なのだ。
福井には、いまだに、蕎麦の食文化が、きちんと守り伝えられている。同時に蕎麦のおいしさも、しっかり守り伝えられている。
だから、福井の蕎麦はおいしいのだ。
ふたつめの「おいしさの理由」
蕎麦のおいしさの理由が食文化にあるとしても、使う材料が変わってしまったら、食文化は意味をなさない。
福井県は、日本全国を見回しても、唯一、もとの材料を変えなかった県だ。つまり、他の県が競い合うように品種改良を行っている間、福井県は何もせず、じっと黙って見ていた。品種改良という意味では、福井県は最後尾を走るランナーだった。
それが、日本人の価値観が変わり、食べ物に、量よりも味、値段の安さよりも安全性を求めるようになった結果、ビリッケツのランナーだった福井県は、一気にトップランナーとして躍り出たのだ。
今、福井の前を走る者は、誰もいない。
日本一おいしい蕎麦として、どんどんスピードを上げ、他を引き離している。これが福井の今の状況なのだ。
福井県には、ざっと数えて、10種類以上の在来種がある。
それぞれの地域で、大切に栽培されている。
関東の味のわかった製粉業者は、「福井産の蕎麦は、独特な味がする」と言う。
福井県以外の県は、改良品種が中心の生産である。
福井県は、すべて在来種だ。
この違いが、「独特な味」という表現につながるのだ。
在来種のソバの味の特徴は、「雑駁(ざっぱく)」であるところにある。収穫された実の中に、十分に熟した実と、まだ未熟で緑色をした実が、混在しているのだ。
それに対して改良品種のソバは、ほぼ同じタイミングで熟していく。畑に蒔いた種が育つと、同じ時期に花をつけ、同じスピードで実るようにコントロールされていることが、改良品種の特徴だ。
この違いが味として出る。
コーラスにたとえていうならば、バス、テノール、ソプラノ、アルトなど、いろいろな音が混在しているから、ハーモニーの美しさが出るのであり、もしも全員がバスであったなら、合唱は味気ないものになってしまうだろう。
福井の在来種には、多彩な音色が混在している。
「福井県の蕎麦は、独特な味がする」という製粉業者の言葉は、褒め言葉だと受け止めていい。
「在来種そば王国・福井」の蕎麦であることを讃える、賞賛の言葉なのである。
寒さと雪が、福井の蕎麦をおいしくする
平地の多い福井県では、水田が多い。
昔は、水田を作ることができない山の斜面などで焼畑をして、ソバを栽培した。焼畑で開いた山の畑は「なぎ」と呼ばれた。
今では、水田の転作にソバを作るが、ソバという作物は、多すぎる水に弱い。雨が多すぎると実りが悪くなるし、畑の排水が悪くて根が水に浸かっていると、これも結果が思わしくない。
そのため福井県では、土地改良に力を入れていて、水田転作でありながら水はけが良く、ソバ栽培に適した土地が多い。
だから、おいしい蕎麦を生産することができるのだ。
福井の夏は暑い。
それとは対照的に、冬の寒さが厳しくて、降雪が多い。
特に、奥越と呼ばれる勝山や大野地区は豪雪地帯で、降雪量の多い年には、家の軒先に達するほど雪が積もる。
この冬を乗り切るため、昔から人々は、野菜などの食料は、干したり、土に埋めたりして保存する方法を工夫してきた。
今ではほとんど見られなくなったが、庭など、家の近くに、わらで編んだ小さな小屋のような「つぐら」を作り、そこに野菜を保存することが、各家庭で行われた。こうすると雪が深くなっても野菜が凍らず、おいしい状態で長期間の保存が可能になる。
今でいう雪中貯蔵の方法である。
深い雪の中での暮らしは過酷だが、蕎麦には悪くない影響がある。雪に埋もれた倉庫で保存すると、温度、湿度が自然の状態で一定に保たれるため、蕎麦にストレスを与えず、味を良くしながら保存することができるのだ。
福井では今、伝統の貯蔵技術を活用して「雪室(ゆきむろ)」で蕎麦を保存する活動を開始している。
具体的には、冬、数メートルの深さに積もった雪を倉庫に詰め込み、「雪室」状態にして、そこに玄ソバを保管する。雪の冷たさを利用して、蕎麦の劣化を防止し、おいしさを保持しようとする取り込みだ。
真夏になっても、この雪室に保管したソバは、新蕎麦と変わらないおいしさが維持されることがわかっている。
むしろ、新蕎麦よりもおいしくなっているという意見もあるほどだ。
福井には、今、時代が必要とする新しい食文化が生まれて、育ちつつある。
雪室のほかに、いくつもの取り組みが、それぞれの地域で始まっている。
「日本一おいしい蕎麦処」としてトップランナーになった福井県は、どんどんスピードを上げ、他の追随を許さない。
これからますます、福井の蕎麦のおいしさは、磨き上げられていくことだろう。
今年はもちろんだが、来年、再来年、福井を訪ねたら、いったい、どれほどおいしい蕎麦が味わえるかと思うと、蕎麦好きは、ほおが緩むのを止められなくなるのだ。
【取材にご協力いただいた店】
手打ちそば 八助
☎︎0779-88-0516
住所/福井県勝山市栄町1-1-8
営業時間
11:00~14:00
17:00~21:00
(蕎麦がなくなり次第終了)
定休日/水曜の夜、木曜(木曜が祝日の場合は営業)
手打ちそば どうせき
☎︎0779-88-0667
住所/福井県勝山市元町1-5-22
営業時間
11:30~14:00
17:00~20:00
定休日/水曜
十割蕎麦 だいこん舎 (だいこんや)
☎︎0778-32-3735
住所/福井県丹生郡越前町小曽原120-3-20 越前陶芸村 陶芸館隣り
営業時間
平日11:00~15:00、土日休日11:00~17:00
夜は要予約
定休日/月曜 (祝日の場合営業、翌日休み)