写真と文 = 片山虎之介
ときどき「十割蕎麦は硬いから好きではありません」という言葉を耳にします。しかし、達人の打った十割蕎麦は、硬いということはありません。程の良い弾力を備えた、おいしい蕎麦になるはずです。
蕎麦は打った人により天と地の差があります。すばらしい十割蕎麦の世界にご案内しましょう。
江戸の昔、蕎麦は十割が正統でした
小麦粉などの「つなぎ」を混ぜないで、蕎麦粉だけで麺線に仕上げた蕎麦。これを「十割蕎麦」とか「生粉(きこ)打ちの蕎麦」などといいます。蕎麦はもともと十割で打つことが普通でした。(解説1)
元禄の初めころには生粉打ちされていた蕎麦に、やがて、小麦粉のつなぎを入れる方法が考案され、二八(にはち)蕎麦などが登場してきます。「二八蕎麦」という言葉は、現在では蕎麦粉8に、小麦粉2を混ぜた粉で打った蕎麦のことを指します。(解説2)
しかし江戸期には蕎麦の値段が一杯16文だった時代に、2×8=16に掛けた言葉で「二八」は値段を意味していたとも言われています。
十割そばと二八そば、どちらのほうが美味しいのかという議論は、蕎麦好きの間では、この時代から交わされてきた永遠のテーマです。
その答えを『日本蕎麦保存会jp』の「十割そばと二八そば、どちらがおいしい?」に書きましたので、ご覧ください。
いずれにしても、小麦粉を混ぜた蕎麦は、庶民的な食べ物とされ、高級な蕎麦は十割で打つものでした。「二八蕎麦」と区別するために、生粉(きこ/解説3)で打たれた十割蕎麦を「生蕎麦(きそば)」と呼ぶようになりました。今も蕎麦屋さんの店頭に「生蕎麦」と染め抜かれた暖簾を目にすることがあります。
十割蕎麦を意味する「生蕎麦」の読み方は、「きそば」です。
それと字は同じなのですが、茹でる前の蕎麦のことを「生蕎麦」と書き、「なまそば」と読みます。
「きそば」と「なまそば」、どちらも同じ「生蕎麦」と書きますが、意味はまったく違うものなのです。
生粉打ちすれば、その蕎麦粉の
良し悪しがわかります
日本各地で昔から蕎麦処として名の知られた土地には、その土地ならではの伝統の蕎麦の打ち方が伝わっています。いわゆる郷土蕎麦の蕎麦打ち技術です。これらの多くの地域では、蕎麦を打つ際、昔から小麦粉のつなぎは使いません。(解説4)
その理由として、「この地方は寒冷地で小麦が栽培できなかったから」とか「昔は小麦粉が高価だったから」などという説もあります。しかしそれは「蕎麦には、小麦粉を入れるのがあたりまえ」という考え方を前提にした言葉だといえるでしょう。
ソバの実を丸ごと挽いた「全粒粉(ぜんりゅうふん)」の場合、品質の良い蕎麦粉を使えば、小麦粉を混ぜなくても、蕎麦はちゃんとつながります。だから、これらの地域で伝統的に小麦粉のつなぎを使わなかった理由は、「必要ないから使わなかった」という言い方が正しいのではないでしょうか。小麦粉を混ぜなければつながらない全粒粉の蕎麦粉は、その蕎麦粉自体に、何らかの問題があるのかもしれません。(解説5)
ですから、小麦粉などのつなぎを使わず、蕎麦粉だけで十割蕎麦を打ってみれば、その蕎麦粉の良し悪しや、特性が、はっきりわかるのです。
ただし、甘皮部分を引き込まずに製粉した、精製度の高い蕎麦粉は、つながりにくい特性を持っているので、良質な粉でもつながりにくい場合があります。
また、全粒粉の蕎麦粉でも、粗挽きにするなど、特殊な製粉を行った場合は、やはりつながりにくくなることがあります。
ソバは産地や品種により、それぞれ違った個性を備えています。産地の状況により、つながりやすい蕎麦粉もあり、つながりにくい蕎麦粉もあるのです。
甘皮まで挽きこんだ全粒粉であるのか、またはソバの実の中心部付近だけを取り出した一番粉であるのかなどによっても、つながり具合は大きく変わってきます。蕎麦を打つ人は、自分が手にしている蕎麦粉の状態をしっかり理解したうえで、取り扱うことが大切です。
蕎麦粉は「生もの」と考えましょう
ときどき、「十割では、蕎麦はつながらないもの」と思い込んでいる方がいらっしゃいます。そういう方は一度、ご自分で使用されている蕎麦粉がどういうものであるのかを確認なさったほうがいいでしょう。
量販店の店頭でビニール袋に詰めて販売されているような、いつ製粉したかわからない蕎麦粉は、生粉打ちでつなげることは難しいでしょう。蕎麦を打つには製粉して間もない、水分の含有量がコントロールされている良質な蕎麦粉が必要なのです。
そうした蕎麦粉を入手したなら、なるべく早く使い切ってしまうことも重要です。残った蕎麦粉をとっておくと、急速に劣化して、風味が消えていきます。何日もたってから打っても、おそらく、あまり美味しい蕎麦はできないでしょう。
蕎麦粉は刺身と同じような「生もの」だと考えるくらいで、ちょうどいいのではないでしょうか。だから人気のある手打ち蕎麦店では、手間を惜しまず、毎日石臼を回して、挽きたての蕎麦粉を使うのです。
名産地では生粉打ちの伝統が
受け継がれています
福島県の会津では、「湯ごね、水ごね」と呼ばれる方法で、蕎麦を打ちます。
この地方では、ソバの実の中心付近の粉「一番粉」を使った白い蕎麦が、昔から郷土蕎麦として伝えられてきました。一番粉だけで打つと、細くて長い蕎麦にしにくいものなのですが、会津では、最初に少量の熱湯で蕎麦粉をこね、次に適量の水を加えて、蕎麦を打ちます。そして見事につながった細くて美しい蕎麦に仕上げます。小麦粉のつなぎは、伝統的に使用しません。こうして作った会津の白い蕎麦は、口に入れると跳ねるような弾力があり、蕎麦独特の食感の妙味を楽しむことができます。
一番粉というのは、ソバの実の中心部だけを選別した蕎麦粉です。この部分は、蕎麦の甘みはあるのですが、香りは弱いという特徴があります。
それとは逆に蕎麦の香りが強いのは、ソバの実の中心部よりも外側の部分です。いわゆる甘皮など、外皮に近い部分に、蕎麦特有の香りはたくさん含まれています。
会津には、こうした甘皮なども一緒に挽き込んで打つ打ち方もあります。ソバの実の殻をむいた「抜き」を丸ごと粉にした「全粒粉(ぜんりゅうふん)」で打つもので、香りが強く、ちょっと色の濃い蕎麦切りになります。
日本各地には、いろいろな蕎麦の打ち方があります。
『蕎麦Web』が主催する「日本蕎麦 伝統技能保持者」段位認定制度は、各地の郷土蕎麦の技法「一本棒、丸延し」による蕎麦打ちの技術を評価して、段位を認定する制度です。
正統の郷土蕎麦の技を習得したい方、美味しい十割蕎麦を打つ技術を身につけたい方は、『日本蕎麦 伝統技能保持者 認定制度のサイト』に詳細が載っていますので、ご覧ください。
(解説1) 寛永20年(1643)に発行された江戸時代の代表的な料理書「料理物語」にも、元禄2年(1689)発行の「合類日用料理抄」にも、蕎麦の作り方の説明の中で小麦粉のつなぎの話は出てこない。寛延4年(1751)に脱稿した蕎麦の名著「蕎麦全書」では、つなぎの小麦粉をたくさん入れ過ぎる蕎麦屋が多いことを嘆いている。
(解説2) 蕎麦粉と小麦粉の混合比率は、良く知られている二八のほか、蕎麦粉と小麦粉が1対1
の場合「同割(どうわり)」、蕎麦粉10に対して小麦粉2を混ぜる場合を「外二(そとに)」などと呼ぶ。
(解説3) 生粉(きこ)=何も混ぜない純粋な蕎麦粉のこと。
(解説4) 長野県の蕎麦処、戸隠では、二八蕎麦が郷土蕎麦となっている。これは蕎麦打ちの技術が、江戸の上野寛永寺から伝えられたためと言われている。
(解説5) 蕎麦粉は高温、光、酸化によって風味が落ちる。秋に収穫されたソバを常温で保存していると、梅雨を過ぎ、夏になるころには著しく劣化し、つなぎを入れないとつながりにくくなる。
そのほか、ソバを収穫した後、高温の熱風を当てて乾燥処理をしたソバは、見た目にはわからないが、その後の劣化の速度が早くなる。
ソバの実から蕎麦粉に製粉した後は、急速に劣化が進むため、できるだけ早く使い切るようにしたい。