HOMEMagazine江戸蕎麦の名店、浅草の並木薮蕎麦 > 蕎麦屋、食べ歩きの楽しみ

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盆ざるを裏返した上に、細切りの蕎麦が広げられた、並木薮蕎麦の「ざるそば」。この味が、江戸蕎麦の伝統を今に伝えている。

蕎麦屋の食べ歩きをするなら、まずは浅草の「並木薮蕎麦」から始めたい

写真と文 = 片山虎之介

『サライ』(小学館刊)の8月6日発売号で片山が、特集『蕎麦「食べ歩き」の極意』を執筆しました。蕎麦屋の食べ歩きは、昔から多くの人が楽しんでいるものですが、具体的に蕎麦屋の何をどう評価すれば良いのかという基準が、ほとんど見当たりません。ですから『サライ』の、この特集では、蕎麦屋の何をどう判断すればよいのかという、ひとつの考え方を提示したかったのです。
 定期刊行物の中での仕事なので、ページ数に制限があります。特集記事の中だけでは書き足りないことが沢山あるので、ここでさらに詳しく書き加えたいと思います。
 江戸蕎麦の名店『並木薮蕎麦』を例にとって、食べ歩きの方法、考え方をご紹介しましょう。
 今から10年くらい前、江戸文化の研究家であった杉浦日向子さん主宰の蕎麦好きグループが、蕎麦屋の食べ歩きを活発に行っていました。浅草の『並木薮蕎麦』は、その基点となる店として、杉浦さんもよく訪れていたところです。
 では、片山とご一緒に都営浅草線に乗って、『並木薮蕎麦』に出かけましょう。

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 白いすじ雲が流れる空が、ひときわ高く感じられる季節。久しぶりに浅草の『並木藪蕎麦』を訪ねた。浅草寺の雷門から南へ一直線に延びる道路沿いに建つ、しもた屋風の日本家屋。その入り口正面に、見慣れた看板の「藪」の字が見える。
 かつて、大の「蕎麦屋好き」であった杉浦日向子さんが、食べ歩きの基点として足繁く通った店。今も多くの蕎麦好きの人々の、蕎麦屋巡りのスタート地点ともなっている一軒だ。

 江戸の伝統を受け継ぐ蕎麦屋には、「粋」の価値観に通じる言わずもがなの掟がある。掟というと、いかめしいが、つまりはエチケット。それを知らずに不粋に振る舞うと、ちょっと恥ずかしいことになってしまう。

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 たとえばゆっくり時間をかけて料理を楽しむフランス料理に対して、蕎麦屋の「長っ尻(ながっちり)」は不粋の極みとされる行為。さっと蕎麦をたぐって、くいっと酒をひっかけ、「ごちそうさま」と席を立つのが、粋な客の典型である。

 また、糊のきいたテーブルクロスのかかったフランス料理のレストランで、食器をカチャカチャ鳴らしながら食べるのは、ご存じのように重大なマナー違反だ。しかし蕎麦屋では、蕎麦を食べるときに、ずずっと音を立てるのは、決して悪いことではない。むしろ蕎麦通と見られることのほうが多い。

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 食文化は地域により、また食のジャンルにより、千差万別。日本人であっても、なくても、蕎麦屋の客としての最低限のエチケットは承知したうえで、名店と呼ばれる店の暖簾はくぐりたい。そうすれば蕎麦屋の素晴らしさを、より一層楽しむことができるに違いない。

 前述の杉浦日向子さんが「自分は蕎麦好きというより蕎麦屋好き」と強調したように、蕎麦屋の雰囲気は、重要なものだ。ある意味で蕎麦そのものと同程度の重みを持つとさえ言える。蕎麦屋に入ったら、まず店の雰囲気を味わいたい。
『並木薮蕎麦』の暖簾をくぐり、軽い引き戸をからりと開けると、靴底の感触も優しい土間が迎えてくれる。店内の半分は、座りやすそうな椅子席。もう半分は、畳敷きの小上がり。大正時代に創業した当時そのままの雰囲気が、店内に満ちている。

 茶室を思わせる内装も好ましいが、さらに感心するのは、そこに座っている客の様子の良さだ。いかにも並木にふさわしい、粋な雰囲気の人々が、静かに蕎麦をたぐり、酒を飲んでいる。並木では客までもが、店の雰囲気を演出する重要な要素になっているのだ。その間を花番さんたちが、流れるように行き来する。

 杉浦日向子さんは自宅に蕎麦を取り寄せて食べるということを、ほとんどしなかったという。蕎麦屋好きとは、蕎麦そのものも好きだが、それ以上に蕎麦屋にいることが好きな人のことだ。『並木薮蕎麦』の椅子に座ると、蕎麦屋好きだという人の気持ちが、なるほどこれなのかと良くわかる。

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茶室を思わせる、並木薮蕎麦の、趣きのある店内。初代の堀田勝三さんは、蕎麦に「禅味」「俳味」を求めた人だった。