2012年の8月、新潟県の妙高山麓で、私たちは「焼畑で在来種のソバを育てる」という、貴重な体験をしました。
このイベントは『蕎麦Web』が主催して行う「蕎麦のソムリエ講座」のひとつです。日本全国からたくさんの蕎麦好きの方々が、はるばるこの地まで足を運んで参加してくださいました。「私たち」と言ったのは、「蕎麦のソムリエ講座」を受講している仲間たちのことです。
焼畑とは、樹木が生い茂った山の斜面に火を放ち、焼き払ったあとにソバなどを蒔いて栽培する原始的な農法です。かつては日本各地で広く行われていたのですが、現在は宮崎県の椎葉(しいば)村など、一部の地域で辛うじて見ることができるだけで、ほとんど失われてしまった農法といえるものです。
以下の写真は『蕎麦Web』が『蕎麦のソムリエ講座』として新潟県妙高市で行った、「焼き畑講座」の様子です。
新潟県の妙高山麓は、希少な在来種のソバ「こそば」が生き残る地域で、蕎麦の好きな人にとっては、憧れの地とも言える場所です。
ここで栽培したソバは、なぜおいしいのか。それは、昔ながらの「こそば」が生き残っていることに加えて、この地域の土が、ソバをおいしくする特別な力を持っているからなのです。
この地でソバを育ててみると、おいしいソバというものは、どういう条件のもとで育つのかという、ソバの基本を理解することができます。遠方から妙高の地を訪れるのは大変ですが、そうまでしても、ここの土でソバを栽培することには大きな意味があるのです。
それに加えて、今では失われてしまった昔ながらの焼畑農法で「こそば」を育ててみると、より深いソバの秘密を知ることができます。今年、私たちが妙高で過ごした焼畑講座の二日間は、ソバの原点に触れた、かけがえのない時間の記憶として、一生の宝物になるだろうと感じています。
さて、妙高で「こそば」を育てる講座は、『蕎麦Web』主催で昨年も開催しました。そのときは焼畑までは行いませんでしたが、ひとりに一区画の小さな畑を持っていただき、自分でそこに種を蒔き、秋には手刈りで収穫するという体験をしていただきました。
下の写真が、昨年行った講座の記録です。今年は、この畑に加えて、さらに焼畑も体験していただいたのです。
昨年、栽培を体験された方々の多くは、今年もまた講座に参加してくださったのですが、数名、今年の講座には、出席されなかった方がおられます。
写真のいちばん手前に写っている男女。隣り合った畑で種蒔きをしているおふたりは、ご夫婦なのですが、今回は残念ながら欠席されました。お名前は、大西宏一良さんと、大西沙織さん。三重県で蕎麦屋さんをなさっていたおふたりです。
「なさっていた」と過去形で書いたのには、理由があります。これから、その話を、させていただこうと思うのです。
大西さんご夫妻が、初めて『蕎麦Web』の課外講座にご参加くださったのは、東京の南青山で開催した講座のときでした。講師をつとめていただいた岐阜県下呂の名店『仲佐』のご主人、中林新一さんに、熱心に質問していた姿が印象に残っています。
次にご参加くださったのが、昨年の夏の妙高での講座でした。「こそば」を育てるために、三重県からご夫婦で、この地に足を運んでくださったのです。
下の写真は、種蒔きをする前夜、講座を受講する仲間たちが集まる懇親会の場で、自己紹介をされるおふたりです。
実は、このとき、ご本人は何もおっしゃいませんでしたが、大西宏一良さんは、大きな悩みを抱えていたのです。
解決できない悩みに、悶々とする日々を過ごす中で、偶然見つけたのがインターネットの『蕎麦Web』でした。講座の内容に興味を持ち、受講を申し込みました。
大西さんが、一昨年、最初にくださったメールを、以下に転載します。
2010年11月18日 23:50:02JST
まだ、間に合いますでしょうか。
蕎麦の深遠な世界へ、私も誘って頂けましたら幸いです。大西 宏一良
片山がテキストをお送りすると、大西さんから即座に返信が届きました。
片山 様
第一回のテスト回答を添付させて頂きます。
お手数をおかけいたしますが、採点をよろしくお願い申し上げます。
大変、興味深く拝読させて頂きました。
大西近江先生の熱意と情熱に感服の至りでございます。
と同時に、ソバを愛する一日本人として先生のことを大変、誇りに思います。
次回の講義が、大変楽しみです!
大西宏一良さんは、送られてきたテキストを読むと、自分が「こうではないだろうか」と思っていながら自信を持てずにいたことが明快に肯定されていて、「やはり、これで良かったのだ」と、明るい気持ちになれたといいます。
また、それまで知らなかったソバの世界が、テキストの中で展開されていて、ソバの奥深さに、あらためて気付くことができたそうです。
大西さんは、「取り寄せ講座」として行っていた、妙高の「こそば」で打った蕎麦を取り寄せて、食べてみることにしました。
それを召し上がった感想は、以下のようなものでした。
片山 様
こんばんは。
『こそば亭』の生そば、頂きました。
蕎麦の深遠な世界の扉が、開かれました。
利き蕎麦講座の予約、2名でお願いできますでしょうか。
年の瀬、お忙しいことと思われますが、何卒よろしくお願い申し上げます。
夜分に失礼致しました。大西 宏一良
大西さんが書いた「利き蕎麦講座」というのが、東京・南青山で行った、大西さんと初めてお会いすることになる講座です。
その講座を、大西さんはとても楽しみにされていて、次のようなメールを送ってくださいました。
心待ちにしていた課外講座がいよいよ間近となり、私も今まで以上に襟を正して蕎麦と向かい合わなければと思っている次第であります。
今回のテキスト最後の一文「蕎麦を試しているようで、実は食べる人の知識と感性が試されている」。なるほどと思わずにはいられませんでした。
課外講座に参加させて頂くにあたって、大変参考になる内容でした。
感謝致します。
片山様、スタッフの皆様におかれましては、日々の仕事の上に講座の準備等で多忙を極めておられることと思いますが、お身体にはご自愛下さいませ。
3/6にお会いできること、楽しみにしております。
では、夜分に失礼致しました。大西 宏一良
そして、今、開催している第二回『蕎麦Web博覧会』の、第一回を開催するにあたり、片山が『蕎麦Web博覧会』への参加をお誘いしたところ、以下のような、長いメールを頂戴したのです。
片山 様
『蕎麦Web博覧会』の件、お気遣い頂きましてありがとうございます。
お忙しい中、私的なメールを送信させて頂くことお許し下さい。
私は、今から9年前の学生時代に脳腫瘍が発覚し、2回の手術、その後の放射線治療を経て、現在も定期的に治療を続けております。
発見が遅れ、腫瘍が脳の内頸動脈に絡みつくように肥大してしまったため、現在の医学では完全除去は不可能でした。
神の手として有名な福島孝徳氏にも実際に診断して頂いたことがあるのですが、これ以上の手術は不可能とのことでした。
術後数年は、耐えがたい頭痛の発作に日常生活もままならず、また学生時代に志した夢を思いもよらぬ形で諦めざるを得ず、精神も肉体もボロボロでした...。
しかしながら、妻をはじめ、回りの人たちに助けられ、また新薬が開発されて体調が整ってくるに従って精神面もかなり安定しきて、大袈裟ではありますが、生かされた意味について考え、前を向いて歩いていこうと思えるようになっていきました。
その頃は、一日に何度も、しかも、いつ襲ってくるかもわからない頭痛の発作に苦しめられていたため、糊口をしのぐためには何とか自身の手に職をつけなければ...と考えていたのですが、幸い、父親が脱サラで手打ち蕎麦店を営んでいたため、一念発起し、その道を進む決意をしたのであります。
その後、修業先から戻り、平成21年3月より、父から現店舗(蕎麦彩 美術館前店)を屋号ごと買い取る形で引き継ぎました。
私達夫婦は、家族経営を望んでいたのですが、様々な問題があり、父は別店舗(蕎麦彩 丸の内店)を構えることとなったのです。
そうして、定期的に治療を続けながら、従業員の方々と共に夫婦二人で何とか日々を営んで参りましたが...。
今月、平成23年7月31日をもちまして、私と妻は現店舗から離れることとなったのです。
昨年の暮れあたりから徐々に日常生活に支障を来たし始め、小康状態が乱れる日が多々あり、長期療養の決断に踏み切った次第です。
現時点では、これからのことはまだ白紙ですが、蕎麦職人の末席を汚すものの一人として、今後も「蕎麦」に携わって生きていきたいと切に願っております。
今の私が言える立場には御座いませんが、この道を歩み出してから私の指針になっているひとつの言葉があります。
「こいつの打った蕎麦を食いたいと思えるような、そんな職人、人間になれ」 修業先の師匠の言葉です。
前回の講座に引き続き、今回の林間学校も、未熟な私自身をもっと人間的に深めていきたいとの思いから参加させて頂く次第です!
このような機会を与えて頂いた、片山様をはじめ、協力者の方々に改めてお礼申し上げます。
ありがとうございます。
林間学校、非常に楽しみです!
長文メール失礼致しました。
お許し頂けるならば、再起の折、またご報告させて頂きたいと思います。
追伸:林間学校の準備等、何かとお忙しい時期であると思われます。どうぞ、私への返信にはお気遣いなさらないで下さい。
大西 宏一良
ご自身がご病気であるにも関わらず、私たち『蕎麦Web』スタッフのことを気遣ってくださる大西さんのお人柄が、文面に表れています。
大西さんが書かれている「林間学校」というのが、昨年、妙高で開催した「こそば」を育てる講座のことです。夏らしい楽しい気分を盛り込もうと、このような別名を付けて行ったのです。
妙高の「林間学校」を体験して帰宅された大西さんから、次のようなメールを頂戴しました。
片山 先生
林間学校お疲れさまでした。
生産者の方々の流される汗に、ほんの少しでもふれることが出来、大袈裟ではなく改めて「食」に対する感謝の念が静かに溢れてきました。
振り返れば、私たち夫婦はここ数年、日々をこなすことに追われ、忙しいという文字の通り、心を亡ぼしてしまうような毎日でした。
経営的に、如何にしてということばかりに囚われ、大事なことを見失いつつあるということを自覚すら出来なくなる前に、身体の方がブレーキをかけ、立ち止まらせてくれたのかもしれません。
そんな我々にとって今回の林間学校は、だから、とても大きな意味を持ったものでした。
一粒のそばの実が、愛情を込められた土の中から、真心を込めた一皿に至るまで...。
大切なことは、目に見えないところ、見えないものにこそ、あるのだということに胸を打たれました。
心に通じる道は、胃を通る...
妙高高原の皆様にも、どうぞよろしくお伝え願います。
貴重な体験を、本当にありがとうございました。
収穫(祈りを込めたので...)、待ち遠しいです!大西 宏一良
秋には再び、全員、妙高に集まって、自分で育てたソバを収穫する喜びを味わいました。
秋の講座が終了したあとで、奥さんの沙織さんが、近くの紅葉した木の葉を一枚取り、「紙がないので、失礼ですけど、これで・・・」とおっしゃって、木の葉に書いた手紙を私にくださいました。
美しい手紙でした。片山は、いただいた木の葉をカメラバッグのポケットにしまったのですが、30分ほどしてそれを見ると、早くも枯れてクシャクシャになりかけていました。
だから、この真心のこもった大切な手紙を、写真に撮っておいたのです。
車のボンネットの上に置いた木の葉に、妙高の夕日が当たって、ほのかに赤く染まっています。
影の部分には、頭上の青空の反射で、ほのかにブルーが重なっています。
この写真には、当日の太陽も、青空も、涼しく吹きすぎる風の感触までも、写り込んでいるのです。
今年の5月。片山の自宅の郵便受けに、一通の封筒が届きました。
大西さんからの便りでした。
うれしい知らせでした。
拝啓
初夏の候、ますますご清祥のことと存じます。
お忙しいところ、突然のお手紙、失礼いたします。
以前も申し上げたことと思いますが、その節は、病による体調悪化での急な退店ということもあり、御贔屓にして頂いておりました皆様にも大変なご迷惑をお掛け致しました。私も妻も道半ばという思いが強く、当初は、一抹の寂しさをなかなか拭うことができずにいたのですが、片山先生に導いて頂いた「蕎麦Web」を通して、さらに蕎麦の世界に魅せられたり、日頃お世話になっていた多くの方々から、耳に響く温かいお気持ちや胸に届く心強いおことばを頂いたりしていくうちに、しっかりと体調を整え、もう一度、蕎麦に携わって生きていきたいと強く思えるようになりました。本当にありがとうございます。
お陰様で、順調な経過をたどり、この度、新たな一歩を踏み出す運びと相成りました。ここにお礼かたがた御案内させていただきます。
生かされている限り、感謝を忘れず、その生の輝きを誇りに蕎麦職人の道を歩み続けて行こうと思っております。未熟な私共ではございますが、今後とも、いっそう精進して参りますので、どうぞよろしくお願い申し上げます。
末筆ながら、ご自愛のほど、お祈り申し上げます。
敬具平成24年6月吉日店主 大西宏一良
開店日 6月20日(水曜日)
営業時間 午前11時半より午後3時まで 夜営業 要予約
〒514-1138 三重県津市戸木町(へきちょう)3503-1 駐車場8台有り
そば処 大西
電話 059-255-1133 定休日 月曜日
今年の初夏、三重県津市にオープンした『そば処 大西』を訪ねてみました。
建物は、大西さんのおじいさんとおばあさんが使っておられた家を改築したもの。費用はなるべく節約して、障子やふすまなどはそのまま生かして、店の雰囲気を出すように工夫したのだそうです。
大西宏一良さん、沙織さんのおふたりが、大歓迎してくださいました。
供された蕎麦は、次のようなものでした。
粗挽き十割
ごまざる
蕎麦をいただいてみると、なんと珍しい、熟成の味がはっきりします。秋の日だまりのにおいを連想させる、豊かな穀物の香りと味が、細い蕎麦切りからあふれ出します。
大西さんが、笑顔で説明してくれました。
「以前から、前の日に打った蕎麦は、おいしいなあと思っていたのですが、蕎麦Web の講座で、熟成した蕎麦のおいしさについて教えていただきましたので、ああ、やっぱり、それでいいんだと分かって、自信を持って熟成蕎麦を店で出すことにしました」
おいしい蕎麦です。大根おろしの薬味がたっぷり付いた「おろしそば」がおすすめです。
蕎麦には、作った人の思いや人柄が、隠しようもなく表れます。
大西さんご夫妻が並んで撮った写真のように、まっすぐで、懸命で、妥協がなくて、やさしさにあふれた、ふたりの蕎麦を味わいに、どうぞ『そば処 大西』を訪ねてください。
その際、「蕎麦Webを見て来たよ」とおっしゃっていただければ、心があたたかくなる、とびっきりの笑顔を、おいしいお蕎麦のおまけに付けてくださるように、お願いしておきます。
沙織さんお手製のランチセット「蕎麦屋の盛合せ、女将の一品」。蕎麦から甘味まで付いて廉価で供する。限定10食。
左から「そば米と昆布大根の和え物」「そば豆腐」「そば味噌」「自家製鴨ロースのサラダ」
「そばの実とろろ」
「桜海老のかき揚げ」 (宮古島の雪塩)
「二八そば」
「甘味」