HOMEMagazine極上の蕎麦を探して信州へ > 極上の蕎麦を探して信州へ/片山虎之介=文

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 うまい蕎麦を味わいたいという衝動は、ふいにやってくる。
 しかし、うまい蕎麦というものは、いつでもどこでも食べられるものでもない。しばらくは別の美味しいもので代用して、気を紛らわせてみたりするのだが、胸の底に居座った、この気持ちを抑え込むのは難しい。
 結局は、懇意にしている蕎麦屋さんに電話して、うまい蕎麦がある場所まで、車を走らせることになる。
「Kさん、今年の蕎麦の出来は、どうですか?」
「悪くないですよ。収穫量は、今まで経験したことがないほど少なかったけれど、味はかなりのものです。3年くらい前の暑い夏の、あの年みたいな仕上がりですよ」
「それは素晴らしい。これからおじゃましても、いいですか?」
「今夜は、部屋も空いているから、泊まっていただいて結構ですよ。吹雪いて凍結しているから、スタッドレス、履いてきてくださいね」
 車を走らせて行く場所は、そのときによって違うが、私の場合、おおむね関越自動車道に乗り、信州に向かうことが多い。今回の旅も、信州は松本市の奈川地区を目指した。

 なぜ、信州なのか。

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 理由は簡単だ。信州には美味しい蕎麦があるから、頻繁に足を運ぶことになる。
 なぜ、美味しい蕎麦は信州にあるのか。
 それは、ひとことで言えば、この地には、昔からずっと受け継がれてきた蕎麦の食文化が存在するからだ。
 「文化」などというと堅苦しく聞こえるが、要は、蕎麦の美味しい食べ方を地元の人がちゃんと知っているということだ。地元で穫れた蕎麦の美味しさを、最も上手に引き出す方法は、地元に伝わる食文化の中に、しっかりと織り込まれている。

 しかし、信州ならば、どこにでも美味しい蕎麦があるかというと、そういうことでもない。
 その地域に、きちんと昔ながらの食文化、つまり美味しく食べるための「技」が受け継がれていることが重要だ。
 この条件をクリアできる場所は、あまり多くはない。
 近年の日本人の食生活の変化の波に揉まれて、伝統の蕎麦の食文化は、砂の城が崩れるように壊れ続けている。その速度は、恐ろしいほどだ。
 江戸の昔から、何代にも渡り、連綿と受け継がれてきた、決して失われることなどないように思えた食文化が、あっという間に影も形もなくなった地域が何カ所もあるのだ。
 
 信州松本の奈川地区は、幸いにも崩壊にまで至らず、なんとか踏みとどまっている場所のひとつだ。
 ここに、うまい蕎麦がある。
 

郷土蕎麦が美味しい理由

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 奈川地区では、「とうじ蕎麦」と呼ばれる食べ方が有名だ。
 「とうじ蕎麦」とは、野菜や山菜、キノコ、油揚げなどを刻んで鍋仕立てにして、そこに、小さなかごに入れた蕎麦を、しゃぶしゃぶのようにして沈め、温めて味わう食べ方だ。奈川の郷土蕎麦ということになっている。
 しかし、「とうじ蕎麦」の食べ方は、もとをたどれば奈川地区に限ったことではなく、信州ではかなり広い範囲で行われていた。木曽から飛騨へ向かう開田高原でも行われていたし、北信では、今は長野市と合併した戸隠でも、この食べ方をしていた。
 奈川地区のお年寄りにお話をうかがうと、「奈川では、冬も夏も、蕎麦を食べるときは、とうじ蕎麦の食べ方をしていました。昔、奈川には、冷たいざる蕎麦という食べ方はなかったのです」と、教えてくださった。
 いつも「とうじ蕎麦」の食べ方をした、その理由は明快だ。それがいちばん美味しい蕎麦の食べ方だったからだという。

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 深い谷間に位置する奈川地区では、ワラビやゼンマイ、秋のキノコ類など、四季の山の幸がふんだんに採れる。それらを鍋に仕立て、蕎麦を入れて味わう。都会では、望んでも叶えられない贅沢だ。

 そして、主役の蕎麦が美味しいことにも、もちろん理由がある。
 この地域では、昔は、主要な食料といえば、ワラビ粉や蕎麦が中心だった。
 ワラビ粉というのは、山菜の代表格であるワラビの根を秋に掘り、杵で搗いて取り出す、でんぷん粉だ。わらび餅などにして焼いて食べた。

 蕎麦は最も重要な食料で、この地域を旅した人の記録を見ると、蕎麦の美味しさに驚いたということが記されている。
 そういう大切な蕎麦だからこそ、人々は、美味しく食べる技術を工夫した。集落ごとに、蕎麦打ち名人として自他ともに認める女性たちがいて、自慢の味を競い合ったものだという。
 
 代々の蕎麦打ち名人たちが重ねた工夫は、伝統の食文化という形に昇華して、子へ、孫へと伝えられた。その貴重な知識が、奈川には今も残っているのだ。
 だから、奈川の蕎麦は、美味しい。これが郷土蕎麦の底力というものなのだ。

 東京を出て、約3時間。長野自動車道の松本インターを下りて、野麦街道と呼ばれた国道158号線を西に向けて走る。
 道はカーブが多くなり、次第に細くなる。車のフロントガラスに吹き付ける雪が、段々勢いを増してくる。うまい蕎麦に出会うのは、なかなか骨が折れるものだ。
 しかし、極上の蕎麦というものは、そこまでしてもなお味わいたくなるほど、強い魅力を備えている。それはもはや、食欲を満たすための食料という域を越えて、心が欲する、魂のための糧だという言い方ができるかもしれない。
 一枚の郷土蕎麦を訪ねる旅、それは遥かな山紫水明の地に足を運び、魂が洗われる清々しい風景の中にそっと身を置く...そんな行為に似ている気がする。

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 Kさんが経営する蕎麦店は、登山客などが泊まれる、宿も兼ねた店だ。車を店の前に付けると、Kさんが迎えに出てくれた。
「お疲れさまでした。雪が深くならないうちに着いてよかったですね」
「途中でかなり激しく降ってきたので、ヒヤヒヤものでした。いつも急に押し掛けて、すみません。Kさんの手打ち蕎麦を思い出したら、矢も盾もたまらなくなって...」
 Kさんは、私が手に持っていたバッグのひとつを引き取ると、微笑みながら言う。
「この季節ですから、一昨年の秋にいらっしゃったときのようなマツタケはありませんよ。でも、蕎麦はいちばん美味しい時期です。用意はできていますから、食堂にどうぞ」
 体に付いた雪を払ってから食堂に入り、テーブルに座ると、早速、蕎麦が運ばれてきた。
 細切りの蕎麦切りに、点々とホシが浮かぶ麺の表情に見とれる。香り高く、しなやかな蕎麦が口中を走る清涼感が、脳裏によみがえる。やっぱり、ここまで来てよかった。
 さあ、魂が洗われる、みそぎのひとときを、楽しむことにしよう。

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