片山虎之介がいざなう蕎麦屋の深奥
そばカフェ ぐりんでる/もりそばの宇宙
蕎麦屋の原点ともいえる「もりそば」に、蕎麦職人は全身全霊を打ち込む。ひとりひとり異なる個性。蕎麦の打ち手の数だけ「もりそば」の宇宙はある。蕎麦職人の祈りの形をした「もりそば」を、日本各地に訪ねる新シリーズ。不定期掲載。
そばカフェ ぐりんでる (長野県松本市)
「もりそば」は、古くから使われているメニュー名だ。器に蕎麦を盛っただけの蕎麦だから、こう呼ばれる。最もシンプルで、食べる人に化粧なしの素顔で対峙する蕎麦だといえる。
蕎麦屋の根幹となるメニューであり、この蕎麦の出来次第で、店の評価が決まるほどの、重要な一品だ。
だから蕎麦職人は、一枚の「もりそば」に、全霊を打ち込む。
蕎麦を栽培する畑の選定から始まって、ソバ品種の選択、収穫時期、収穫方法の判断、さらには製粉する蕎麦粉の粒度の決定から、蕎麦の打ち方まで、蕎麦職人は、「もりそば」を脳裏に思い浮かべながら、ひとつひとつの工程を吟味していくのだ。
蕎麦屋を訪ねたとき、この「すっぴんの蕎麦」に挨拶するのは、蕎麦好きの礼儀のようなものだと、私は思っている。
極め付きの「もりそば」を供する店『そばカフェ ぐりんでる』は、長野県の松本から上高地に向かう国道158号線を、30分ほど走った道沿い右手にある。
以前は、ドライブインに使われていた建物を店舗として使っているため、どう見ても蕎麦屋とは思えない。この建物で蕎麦を出すと聞いただけで、きびすを返して店に入らない人もいるほどだ。
しかし、それは蕎麦好きにとって、一生の不覚と言える。遠路を駆けて味わうに値する、希有な蕎麦のひとつである。
主人の木口光芳さんが使う玄蕎麦は、地元の畑で、自ら手をかけて栽培した奈川在来が中心となる。
このソバ品種は、味、香り、食感という、蕎麦に必要な要素を、すべてバランス良く備えている。いわゆる昔ながらの蕎麦の味を継承しているソバだ。
しかし、日本全国、どこでもそうだが、本来の蕎麦の味を備えているソバ品種が、風化するように姿を消しつつある。
奈川在来も例外ではなく、他の品種との交雑も珍しくなくなって、昔のままの姿をとどめているものは、ほんとうにわずかになってしまった。
良い材料を、蕎麦のわかった打ち手が打って初めて、蕎麦の魅力を引き出すことができる。
旨い蕎麦に出会うのは、残念なことだが、どんどん難しくなっている。
木口さんの「もりそば」を、いただいてみよう。
色はやや黒目で、ホシが点在する。
それでいながら、清々しい透明感がある。
思わず、ごくりと喉がなる蕎麦だ。
口に運べば、予想を遥かに越えるなめらかな食感。
清々しい香りと、蕎麦ならではの滋味が渾然と混ざり合い、口中を満たす。
やや冷たさの残る麺が、跳ねるように弾みながら喉に滑り込む。
舌で味わい、歯で確かめ、鼻で楽しみ、喉で蕎麦の恍惚を知る。
これが、木口さんの「もりそば」だ。
そばつゆもまた、絶妙の間合いをとって、蕎麦に寄り添う。
そばつゆの力の持たせ方によっては、蕎麦そのものの表情を抑えてしまう例も、他では見かけるが、このつゆはそういうことがない。
一歩遅れて、しかし蕎麦の魅力を何倍にも増幅させる、名傍役と呼ぶにふさわしいつゆだ。
つゆに大根おろしを入れ、蕎麦とともにいただくと、穏やかであった蕎麦の表情は、眠っていた獅子が目覚めて咆哮するように一変する。
そばつゆも、薬味の大根おろしも、木口さんの「もりそば」の宇宙を大きく広げる、重要な役割を担っている。
この下に掲載した写真は、まだ試作品の段階での、粗挽き十割の「もりそば」だ。
奈川在来の、去年のひね蕎麦を、超粗挽きに製粉して、生粉打ちしたもの。
木口さんも、「さて、つながるかどうか、自信がないなあ」とつぶやきながら、初めて打ってみた一枚だ。
夢のような蕎麦である。
これから奈川在来の新蕎麦が出るので、新蕎麦でもこの作り方を試してから、正式にメニューに載せるつもりだという。
ひね蕎麦は、この材料が保冷庫にある間なら、予約すれば味わうことができる。
そばカフェ ぐりんでる
長野県松本市安曇3365-1
電話0263-94-2825
営業 11時〜15時(蕎麦がなくなりしだい終了)
定休日 水曜日(冬期は雪のため通行止めになることがあるので、事前に要確認)
「とうじそば」は、一人分2500円 (二人前から注文可。要予約)。11月15日から4月15日までメニューに載る。