蕎麦の歴史や各地の食文化を子細に研究して、それまで知られていなかった多くの事実に光を当てた蕎麦研究家、新島繁さん(1920〜2001)。蕎麦研究に情熱を傾けた生涯を、ご紹介します。
前人未到の蕎麦の研究に乗り出す
新島繁さんは蕎麦の歴史を旅してきた人である。江戸時代、天秤棒で屋台を担いで蕎麦を売り歩いた「夜蕎麦売り」のかたわらにふらりと立って、その商いを観察したり、浅草の寺院・道光庵では、髷を結った町人や侍と席を並べ、僧侶が白い御膳粉を使って手打ちした蕎麦を、辛味大根の絞り汁で味わってきた。蕎麦に関する歴史のあらゆる場所を、足の向くまま気の向くまま、縦横無尽に行き来した時間の旅人だ。
とりわけ寛延4年(1751)に『蕎麦全書』を著した江戸の蕎麦通、日新舎友蕎子とは親交が深く、彼が蕎麦を打つ様子を、砂かぶりならぬ蕎麦粉かぶりで、つぶさに見学したらしい。
新島繁さんは大正9年、台湾の生まれ。昭和19年、早稲田大学専門部政経科を卒業。新宿に、蕎麦店「郷土そば・さらしな」を開いたのは、戦後の混乱もようやく収まってきた昭和23年のことだった。
店は開いたが、当の本人は蕎麦のことはほとんど知らない素人同然。当時、蕎麦や鮨の業界には、専門の職人を派遣してくれる「部屋」と呼ばれるシステムがあり、「郷土そば・さらしな」で蕎麦を作る職人は、そこに依頼した。
この店を経営するかたわら、新島さんは蕎麦のことを知るために、様々な資料を集めた。古書店を巡り、小説に古文書、新聞、雑誌など、蕎麦のことが書いてあれば、どんな本でも買った。調べるほどに奥深い、蕎麦の世界に引きずり込まれるように研究を重ね、ついには蕎麦研究の第一人者に上り詰めたのである。
正確と誠実が基本姿勢
歴史資料を探す場合、料理についての情報は、公の機関が書き残した公文書の類いには残りにくい。特に蕎麦は大衆食であったため、昔の様子を記録した資料は極めて少ない。わずかに、武士や僧侶が遠方へ旅をしたときの日記など、個人的な記録に、当時の蕎麦屋の様子が記載されていたりすることがある。それに当時の風俗を描いた錦絵も、文字だけでは読み取れない物の形や雰囲気を掴むための重要な資料となる。新島さんは、そういった文献、書画を丹念に集め、昔の蕎麦はどのように食されていたのかを研究した。
新島さんの著書を数多く手がけた料理専門の出版社、柴田書店の編集者、永田雄一さんは、氏の仕事ぶりを次のようにいう。
「いくつもの文献を照合しながら、史実のみを積み重ねるということが、新島先生の基本姿勢で、想像で発言するということのない方でした」
将来、蕎麦の研究をされる方々の資料になるようにとの言葉は、良く口にしていたという。
新島さんが高く評価される点のひとつは、そこにある。著書が資料としての価値を失わないよう、主観を極力抑えて事実のみを集め、その出典が何年に書かれた何という文献なのかを、キチンと明記しておく。だから年月を経るほどに新島さんの著書は、その貴重さを増すのである。
【略歴】
新島 繁 (にいじま・しげる)
大正9年(1920)、台湾・嘉義市に生まれる。早稲田大学専門部政経科卒業。昭和23年(1948)に、東京・新宿に、「郷土そば・さらしな」を開店。昭和32年より小冊子「さらしなそば」の刊行を開始する。昭和45年より「日本麺食史研究所」を主宰。平成13年1月27日逝去。
享年80歳。
●蕎麦店「さらしな総本店」は、ご子息が引き継ぎ、東京・中野(北口と南口に2店)と田無で営業している。
さらしな総本店 北口店
東京都中野区中野5-56-7
電話03-3389-4218
営業 11時〜22時(LO1階9時45分 2階9時30分)
正月以外は無休
JR中央線中野駅北口より徒歩2分
年月が経つほどに輝きを増す仕事
現在、蕎麦の歴史を研究するに当たっては、新島さんの著書が欠くことのできない資料となる。今では失われてしまった蕎麦の風習や技術が、本の中に生き生きと記録されているからだ。蕎麦の歴史を研究するすべての人にとって、新島さんの成し遂げた仕事は、現在は言うに及ばず将来に渡っても、揺るぎない土台となるに違いない。
この僕が蕎麦の世界に足を踏み入れるきっかけとなったのも、国会図書館で調べものをしていた際に出会った新島さんの一冊の著書だった。だから、今、こうして、新島さんという偉大な先駆者を、多くの方々に紹介できることには特別な感慨がある。
新島さんと一緒に歴史の旅に出かけるのは簡単だ。一冊の著書を手に入れ、それを読むひとときの時間があればいい。新島さんは、寒い夜に夜蕎麦売りが蕎麦を温める様子を指差しながら、情熱のこもった言葉で極めて正確に、なおかつ分かりやすく、解説してくれることだろう。
●資料提供 新島フミエ/柴田書店
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